ゆるふわブログ

プログラミング,大学の勉強,日常生活で感じたことをゆるふわに書いていけたらなと思います.技術的に拙いところがあっても温かい目で見守っていただければ幸いです.

ポエム -nou-

僕はいつも誰かの猿真似をしているだけである.オリジナリティーがない.「アイデンティティーがない」

優れたものをコピーしようとしたところでそれは所詮劣化コピーだ.

「君は救われない」

君はそこにかすかな敵意を嗅ぎ取って,苦しくなってしまうんだねえ.誰も理解してくれない.
大学のやつらは学生も教授も僕をあざ笑っている.「あいつはバカだ」誰も僕の感受性を理解しない.

「外」の人間に対しあれだけ卑劣に手のひらを裏返し,その死すら願う亡者どもに何がわかる,
「こいつらはおかしい」「化け物だ」そう思って何が悪い.

競争が激化しているところにはもう "人間" は残っていないのかもしれない.

「お前が悪いんじゃないか」「過去やったことを考えれば,そうなって当然だろう」

「その時の僕にはその判断が最善だった.ならばそれは「正しい」他人から見て愚かに見えても,自分の中でつじつまがあっていれば恥ではなかろう.」
これを骨の髄まで理解せねばならない.

僕は最近常に "死" を考えている.やるべきことを最低水準でなんとかやりつつ,あとは寝込んでいる.
絶望しかなかった.理性的だと思っていた教授も競争と能力のトリコだった.もう何の希望もない.

あの助教も教授も学生も高校の頃のクラスメートも予備校の教師も何もかも「お前はダメなやつだ」という視線を向けてくる.
僕は「カイン」なのだから,君たちとは良くも悪くも違うのだから,しかし君たちは僕を放っておいてはくれないのだから・・・
孤独に生まれついたのだから,人と関わると無性に疲れるのだから,貴様らと口も聞きたくないのだから・・・

大学では一言も喋れなくなる.発表もできない.
なぜなら恐ろしい化け物に自分の身を晒すのは自殺行為だから.
なぜなら自分を「バカ」だと思っているから (?) 自分の言動全てに愚かしさの種を見てしまうから.
なぜなら自分に「才能」がないから (?) 発言そのものが「あるべき形」にならないから.

今更臆病風か? 「命を賭して戦う」のではなかったのか?

痛い.苦しい.他の人間が「ダメ」と僕にいう一言一言が頭にずっと残り,僕の胸に牙をつきたてずっと響き続ける.
もうその日はダメだ.一日中寝込むしかない.あとは慰めに陰気な哲学書 (?) を読むか.

僕の味方はネットのつながりか,本の中か,精神医療スタッフだけか.
皆まだ "人間" を保っている.僕は君たちしか信用できない.

「男性への能力差別.無能の排除.それがお前の生きにくさの正体だ」

そう言われている気がする.いや,ずっと前からみんなそう言っていたのだ.

「女はいいよな.容姿なんて何も絶対的でない.能力の方が絶対的ではないか.」

しかしながら,それに懐疑を向けて争うことが真理であると僕は知っている.
僕はその言葉に屈しない.屈っせない.

「諦めれば全てが嘘になる.救いなどなくていい」

承認欲求がつらい

リアルで承認を得られていないと、ネットでそれを求めるようになる。Twitter のファボ、あれはまずい。
なんだか自分の思うことではなく、ファボをもらうためにツイートしてしまっているような気がする。

「他人はどんなことを言っても受け入れてくれる」と思い込まなければやってられない。この人はぼくを認めてくれる、というのも一種の押し付けなのだろう。

そうすると、ネットで周りの人が言った否定的発言も受け取ってしまう。そういう時は、まず自分の中に確信の持てないことがあって、それに類する否定的発言をフォロワーがしていた時に、自分に言っているのではないか、失望させてしまったのではないかと思ってしまう。他人にどう思われるか、というあれである。「神経症性」とどうもいうらしい。

でもやはり、人間なので人から承認されなければ生きていけないと思う。そこは否定できないような気がする。
Twitter から離れるべきなのかもしれない。

特にあれだね、専門外のことは不用意に言うもんじゃない気がする。どうにも、少し面白いものを見つけると人にも知らせたくなるような、子供のような気持ちがどこかにあるみたいだ。自分の専門のことだとある程度シビアになるんだけれども、専門外のことだと修練も浅いし、何より「自分は理解している」という判定が甘くなってしまっているような気がする。所詮は素人なのである。なんか見識のある人からすると見苦しいことをやっている気がする。もっと勉強しないとなあ。

あと本かなあ。本を読むそれ自体は悪いことじゃないんだけれども、本から言葉を借りる時に、そこにオリジナリティーはあるのかという。自分の心にしっくりくるというか、引用するのはそういうものだけにしようと努めているつもりだけれども。まあとりあえずは「濫読」ってやつをやってみようと思う。

なんだかね、そういう自分を批判されているような気がするんです。少なくとも自分はなんだかまずいことをやっているという自覚がある以上、どうにかしないとねえ。

イキるのは数理工学の領分内にしといたほうがいいですねえ。

声優ってすごい

たまに声優のドキュメンタリーとか見ると普段自分が見ている作品の背後にこんな壮絶な世界が広がっているのかと感嘆、いや畏怖を覚える。
声優たちが「現場」と呼ぶ場所のあの張り詰めた空気。人から寄せられる期待の嵐。プロとしての責任。そういうのを見ているだけで苦しくなってくる。ぼくはあの場で正気を保っていられないだろう。立っていることすらままならないかもしれない。

いまぼくが生きているのは、彼らの仕事にかける情熱のおかげであると言っても過言ではない。極限まで洗練され磨き上げられた声は人の心を揺り動かすのに十分に過ぎると思う。それは芸術を見る目がなくこの上なく鈍感であるぼくですらもだ。アニメというのは声優の声に膨大な情報がのっている。文体だけでは決してのせられないような情報。それによって、作品によっては、難しく高尚な概念とされるものもなんというかその雰囲気というか、境地に達したものの醸し出す覇気のようなものを現実よりも誇張して増幅して見せるのである。それの尊さというものをなんとなく感じさせてくれる。人がそれへと向かっていくためにとても大切なもの。心暖まる気持ち。

例えば最近でいえば、SAO のアリシゼーション編などはとても良い。ユージオとキリトの関係の美しさとか、キリトが花を踏みにじられて流す涙とか、カーディナルをキリトが抱きしめて「報われた」場面とか、そういうところにふと「いいなあ」と思う。誇張なく尊いものを感じる。心暖まる気持ち。これこそがもっとも重要なのである。これこそがぼくがアニメに求め、救われたものなのである。それは自信を持って言える。これが一般にアニメが表現したい本質の一端であると信ずる。この気持ちを闇に沈めて、世間の荒波に飲まれて醜悪の限りを尽くしている人間もいる。そういったものへの一種の反抗なのではないかと思っている。SAO は最初ラノベ風のセリフに辟易としていたし、ユイに「パパ、ママ」などと言わせた時は「これだからラノベは・・・」などと思ったものだが、アリシゼーション編はそれとは "重み" の違うものを感じる。それこそ、描写の "重み" が比較にならないのである。アニメ関係者はもちろん、著者は腕をあげられたのかなあなどと思う。ぼくはああいうアニメの本質を析出した透明に輝くものが好きである。

いままで実に様々なアニメを見てきたが、やはり肝要なところはそこだと思う。そして、巷では (全てとは言わないが) ラノベ原作の内容の薄い、現実とのギャップを面白さと勘違いしているような、アニメ審美眼のない人々のために作られたアニメというのも跋扈している。
しかしその中で、余計の要素のない純度の高い美しいものがいくつかある。中には哲学的な思想を描き出しているものもある。

そういった凄まじい表現力の影には、声優たちの熱き "願い" があるのだなあと感嘆した。セリフ一つに徹底的にこだわる彼らのその魂の叫びこそこの "重み" を作っているのだと、忘れてはならないと思う。

相手と自分の非対称性

「ずっと他人に傷つけられてきたから自分は絶対に人を傷つけない」というの、本当に正しいのだろうか?

そんな「掟」を律儀に守っていれば、相手が感化されて攻撃をやめてくれるとでも? お笑い種な気がする。

確かにみんながそれを守ってくれれば優しい世界が到来するだろうが、残念ながら世界はそんなに優しくないのである。

他人を攻撃するというのは自分を守るためだと思う。攻撃をしないと決めることは自分から白旗を振っているようなものだ。あとは攻め落とされて、踏みにじられて殺されるだけだ。

確かに貫き通したい信念、そこだけは純粋でなければ自分が嘘になるという事柄はあるだろう。しかし、全てが純粋なままでいては殺されてしまう。

そういう輝かしい少数の透明な核を残して、あとは闇に沈めてしまおう。部分的に純粋さを諦めるのである。

自分で主張しなければ、不当なことに抗議しなければ、多数の暴力にあって押し負けるだけだ。

他人を傷つけることを恐れてはならない。自分の中に巣食う悪魔をなかったことにしてはならない。欺瞞に落ちてはならないのである。

それを見つめ、認めて、そんな卑劣さの芯にある暖かい優しさを持つ人間になりたい。卑劣さを憎んで卑劣になるのである。


私? 私はね、人の誇りと尊厳だけはふみにじりたくない。相手を対等の存在者として、畏敬の念を抱きつつ対話をしたいのである。

立体切断を多角的に捉える

こんにちは、Ysmr-Ry です。

先日このようなツイートを見かけました。

このような立体切断の問題、小学校の頃何もわからず解いた記憶がありますが、こういう発想をするには 空間認知能力がなければいけないのでしょうか?

そこで今回は空間認識能力皆無な私がこの立体の切断について理解を深める過程を見ていきたいと思います。

まず思うこと

まず思うのは有名な立体切断です。立方体の重心を通り、各辺の中点を通るように切断すると正六角形が現れます。
このツイートは、切り口を六角形の6方向に伸ばすべく、立方体を各面に貼り合わせて計 7 個にしたものです。
立体切断の際は、軸を伸ばして三角形を描くように言われるのですが、まさにここではその三角形が切り口としてあらわになるようにうまく立体を足した形になっています。

このことは、Visualizer を作ったのでイメージのわかない方はそちらで確かめてみてください。初期位置が六芒星の切断となっているので、矢印キーでカメラをぐりぐり動かしてみてください。X, C キーは押さないほうが良いです。(サイトに飛んだ方がいいです)

codepen.io
CodePen - HexagonCube

空間認知能力がないならば

ないならば方程式で処理してしまえばいいんですね〜 代数的にゴリゴリするだけなら誰でもできます。やってみましょう。

まず、3 次元座標を設定し、その中心が考える立体の "中心" の立方体の重心になるようにします。
この立体を不等式で表してみましょう。

ここで知っていると見通しの良いのは、正方形が一種の "円" であるということです。
通常の意味での閉円板、すなわち円の周及び内部は中心  a、半径  r として、 D(a,r) = \{x | d_2(a,x) \leq r\} で表されます。
ただし、 d_2( (x_1,y_1),(x_2,y_2) ) = \sqrt{(x_1-x_2)^2+(y_1-y_2)^2} は Euclid 距離です。この距離の部分を別の距離に置き換えることで、円板を拡張できます。閉円板を正方形にするには Chebychev 距離  d_\infty( (x_1,y_1),(x_2,y_2) ) = \max\{|x_1-x_2|,|y_1-y_2|\} を使います。

考える立体を 3 つに分けましょう。すなわち、2x2x6 の直方体が x, y, z 軸にそうように重なっているとします。(軸の方向はそうとるものとし、1 つの立方体の寸法は 2x2x2 とする) xy 平面上で 2x2 の正方形であり、z 軸方向へは無限に伸びる四角柱は、先の議論により、 d_\infty(O,(x,y) )=max\{|x|,|y|\} \leq 1 と表されます。これに、z 軸方向が [-3,3] の範囲であることを組み込んで、 max\{|x|,|y|,|\frac{z}{3}|\} \leq 1 となります。他の軸については、x, y, z を cyclic に置換して行けば良いです。すなわち、

 max\{|x|,|y|,|\frac{z}{3}|\} \leq 1 \cup max\{|y|,|z|,|\frac{x}{3}|\} \leq 1 \cup max\{|z|,|x|,|\frac{y}{3}|\} \leq 1

が求める立体です。

さて、2 次元のグラフ描画ツールなら desmos という便利なのを知っているのですが、私はなにぶん Geogebra とかできないので 3 次元の描画はめんどい (というかわかりづらい) のです。そこで、3 次元なものを扱うときの重要な観点なのですが、平面で切断した切り口など 2 次元の情報に落とし込んで考察する ことを考えます。いやまあ、立体切断なんだから当たり前なんですが。先に正六角形の切断がベースになっていると述べました。この切断面は定式化すると、原点を通り、法線ベクトル (平面と直交している向き) が (1,1,1) であるような平面  x+y+z=0 です。これを平面の向きはそのままに動かしていくので、パラメータ  k を使って  x+y+z=k としておきましょう。

切断平面上に 2 次元座標 (s,t) を設定し、s, t の方程式として切り口を立式できれば、グラフツールで st 平面上にグラフを書けば切り口を Visualize できそうです。その際、切断平面上の正規直交基底 (長さ 1 で互いに直交する "ものさし") を (1,1,1) に直交する 2 ベクトルから選び出す必要があります。ここでは、 x+y+z=0 の任意の点  P に対し、

 \overrightarrow{OP} = s\begin{pmatrix} \frac{1}{\sqrt{2}} \\ -\frac{1}{\sqrt{2}} \\ 0 \end{pmatrix} + t\begin{pmatrix} \frac{1}{\sqrt{6}} \\ \frac{1}{\sqrt{6}} \\ -\frac{\sqrt{2}}{\sqrt{3}} \end{pmatrix}

としましょう。ここで、一般には  x+y+z=k ですから、座標原点の変位ベクトルを (k/3,k/3,k/3) として足しあわせましょう。すると、

 \begin{pmatrix} x \\ y \\ z \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} \frac{s}{\sqrt{2}}+\frac{t}{\sqrt{6}}+\frac{k}{3} \\ -\frac{s}{\sqrt{2}}+\frac{t}{\sqrt{6}}+\frac{k}{3} \\ -\sqrt{\frac{2}{3}}t+\frac{k}{3} \end{pmatrix}

となります。これを求める立体の不等式に代入すれば完成です。cyclic な 3 つの直方体のうち、一つを示せば十分でしょう。

 \max\{|x|,|y|,|\frac{z}{3}|\} \leq 1 \iff \max\left\{\left|\frac{s}{\sqrt{2}}+\frac{t}{\sqrt{6}}+\frac{k}{3}\right|,\left|-\frac{s}{\sqrt{2}}+\frac{t}{\sqrt{6}}+\frac{k}{3}\right|,\left|\frac{-\sqrt{\frac{2}{3}}t+\frac{k}{3}}{3}\right|\right\}\le1

 \max\{a,b,c\} \leq 1 \iff a \leq 1 \land b \leq 1 \land c \leq 1 であることに注意すると、これは幾つかの線形な不等式群のなす領域であることがわかります。(すなわち、幾つかの直線に囲まれた領域。線形計画法の実行可能領域)

このような領域を図示したものが以下になります。(ページに飛んでもらった方がいじりやすいです。

www.desmos.com

色分けとしては z, x, y 軸にそう直方体がそれぞれ紫、青、緑であり (それぞれの領域を  S, T, U とする)、その共通部分が橙です ( V とする)。橙の領域は立体を "中心" の立方体に限った時の切り口です。(ゆえに  k=0 の時は正六角形になっている)

左側にある  k の値をスライドさせていじると領域が動きます。 k=0 の時が六芒星 k=1 の時は、"中心" の立方体において 3 面の対角線のなす正三角形が切り口となっている状況、 k=3 の時は "中心" の立方体の (1,1,1) 方向の頂点をギリギリかすめている位置にあり、ここから先は橙の領域がなくなります。(ここら辺は冒頭の 3d Visualizer と合わせて確認してみてください)

さて、 k をぐりぐり動かしているといろいろと見えてきます。 S, T, U は基本的に平行四辺形 (正確にはひし形) であり、ある t 軸に垂直な水平線が上下にあって (図中の一番上 / 下の赤い線です)、そこを超えてしまうと削られていきます。また、 S, T, U は原点を中心として 120° ずつ回転させた関係になっています。

求積

さて、数学 III あたりを履修したことのある人は、立体の切り口というと積分を思い浮かべると思います。この立体は 2x2x2 の立方体が 7 個なので体積は簡単に求まるのですが、切り口の面積を解析的に計算し積分することで等しくなることを確かめましょう。

面積を求める上で少し違う視点に立つとやりやすいです。すなわち、切り口を  V\sqcup(S-V)\sqcup(T-V)\sqcup(U-V) と捉えてみましょう。すると、先ほどの水平線の間にさらに 2 本の水平線があり (図中の中央 2 本の赤い線です)、橙の部分はそれに切り取られていることがわかります。 S-V, T-V, U-V の面積は等しいので、 V, S-V の面積が求まれば  k における切り口の面積  S(k) が求まります。平行四辺形が水平線で切り取られている部分は相似を使うと容易に求めることができ(相似比の 2 乗ってやつです)、まとめると、

 S(k) = \begin{cases}
6\sqrt{3}\left(\left(\frac{k}{2}+\frac{1}{2}\right)^2+\left(-\frac{k}{2}+\frac{1}{2}\right)^2\right)+2\sqrt{3}\left(2-\left(\frac{1}{2}+\frac{k^2}{2}\right)\right)\ \quad (0\le k\le1) \\
6\sqrt{3}\left(2-\left(\frac{k}{2}-\frac{3}{2}\right)^2-\left(\frac{k}{2}-\frac{1}{2}\right)^2\right)+2\sqrt{3}\left(\frac{k}{2}-\frac{3}{2}\right)^2\ \quad (1\le k\le3) \\
6\sqrt{3}\left(\frac{5}{2}-\frac{k}{2}\right)^2\ \quad (3\le k\le5)
\end{cases}

と、滑らかに接続された放物線群となります。( k\geq 0 の時) これを積分します。
この際注意しなければならないのは、 k の 1 目盛が実際の長さ 1 ではないということです。変位ベクトルの長さは  |(\frac{1}{3},\frac{1}{3},\frac{1}{3})|=\frac{1}{\sqrt{3}} であるので、これをかけねばなりません。さらに、 k が正の時と負の時では同じ挙動をしめす ( S(k) は偶関数であり、元ツイートの右側の立体は全立体のちょうど半分) なので、体積は

 2\int_0^5 S(k) \frac{dk}{\sqrt{3}} = 56 = 2^3\cdot 7

となり、一致しました。

お疲れ様でした。

終わりに

冒頭の 3d Visualizer で X/C キーで k を増減できるので試してみてください!

他にも切断平面の法線ベクトルを自由に変えたらどうなるかとか考えているので続編を乞うご期待!

才能

人には向き不向きがある。それは自然なことである。本来ユニコーンの角のように鋭敏で尖っているものが、計るものさしの向きによっては短所にもなりうる。周りはその角をしきりに気にするのである。そこに優劣をつけて、優れたものを崇め奉り、劣ったものを見下し、屈辱を与え、尊厳を剥奪する。私こそ、その力学の中で最ももがき苦しんだ人間の一人であろう。私は才能、誰をも圧倒し凌駕するほどの、人類で一番というほどの天賦の才がなかったこと、ただその一点によって人であることを剥奪された。人は「それでも君は優秀ではないか」と鈍感なことを言うが、人類の分布の先端を目の当たりにしてしまった人間にとっては何もかも慰めにもならないのである。私は自分の無能を呪い尽くした。集団に不適応を催しているのなら、「天才」でなければ存在価値を認めない。そういった一元的専門能力主義に毒され、歪みきった価値観が「上位」の集団では蔓延しているのである。周囲は私にそのことによってのみ侮蔑的態度をとる。私の角をことあるごとにあざ笑う。屈辱の極みだった。腹も立った。しかし、それはあらゆる評価に裏打ちされた客観的事実に思われ、自分よりも明らかに優れている人間が繰り出してくる蔑みには抗えなかった。何よりも私自身が、この醜悪な能力主義を内面化してしまったようなのだ。苦しかった。自分が価値のないものに思えた。どんなに上り詰めても頂点に君臨するものに畏怖し、怯え、下から追われることにも怯え、自分が何もできはしないちっぽけな存在に思われた。数学ができれば生きている価値があるのだろうか?特別な才能がなければ、平凡であれば生きている価値がないのだろうか? しかしながら残酷なことに人の興味は優れ卓越したものに向くのである。私は私を肯定できない。

ポエム2 ー星を喰うものー

GODZILLA 星を喰う者」を見た。ここまで心が動いたのは久しぶりなのでイタイ文章を書いておこうと思う。

※ ネタバレを含みます

隣の席の人々が言った。「ゴジラである必要はない!」知ったことか!ぼくはこれが見たかったのである!私は随分と虚淵玄氏に人生を狂わされたと思う。だが、それでいいのだ。いい作品とは人を狂わせるぐらいでなければ。彼の描く正義、人間の誇り高さに強い共感を覚える。ぼくの本性とよくあっているのかもしれない。氏の著作、「アイゼンフリューゲル」では人類の飽くなき探究心に胸を熱くしたものだが、今回のテーマはその先にあると思う。と言っても、お話が難しいのでぼけっと見ていてぼくが引っかかったところしか語れないが…

人というのは儚いものである。盛者必衰、まあ誰でも聞いたことがあるだろう。我々が何かをなしても、子孫を残したとしても、それは何年先まで残るのだろう、たとえ地球上に残ったとしても最終的には太陽に飲み込まれる。宇宙論的時間の前では何もかも無意味である。一方で、人類の飽くなき歩みには凄まじいものがある。人は未知なものに挑まずにはいられない。作中でエクシフはその極致にまで至った。その果てに得た答えは、永遠などないこと。滅びの運命という当然の結末をついに論理的に示してしまったのである。どうせみんな死んでしまうのなら、なくなってしまうのなら、その滅びの中に救いを見出すしかない。異次元の絶対的覇者への献身。それこそが救済であるという結論にたどり着いた。

だが、主人公ハルオはそれをも否定する。諦めれば全てが嘘になる。救いなどなくていい。

ここからはぼくの醜い願望だが、ぼくほどハルオに近い人間はいないのではないか? 人の誇り高さを心の底から信じ、最後まで人として怪獣に打ち勝とうとした。想像を絶するほどの絶望と憎しみを抱き、復讐を誓ったその強暴性。メトフィエスは彼が神にくだったその時こそ祭壇にのぼる英雄にふさわしいと企んでいたが、ハルオはそれをも凌駕した。

最終的に、栄華を極めた先には破滅しかないと悟ったハルオは、極致に至った文明を自らの復讐心とともに滅ぼそうとしたわけであるが、果たしてそれは解決になるのだろうか? 今、知の最先端で学ぶものとして言わせてもらうが人類が探求をやめるかといえば答えは否だと思う。人は問うことをやめられない。疑問に思わずにはいられない。文明が後退したとしても、必ずやその中から真理を考究する者が現れる。人は前進をやめられないと思う。

そういうニヒリズム的な問いがあると思う。その中で、生きることを、滅びでない選択肢を「探究」したのである。自らを滅ぼすことで怪獣との共生を実現する… たとえその問いに答えがないと思われても、解決が絶望的であっても、挑まずにはいられないのである。

一方で、憎悪に身を焦がした先に、誇りに胸を熱くした先に、破滅があったとしても致し方何のではないかと思ってしまう。ぼくも自分を突き通した果てに儚く散ろうではないか、ハルオのように…

虚淵氏の作品を見ていると、ぼくがずっと問うている問いの答えを投げつけられた気分になる。それは極めて精緻であり、ほころびなど見当たらない完璧な真理であるように思われる。だが、それは氏の圧倒的な筆力によって惑わされてるだけなのだろうか? そんな者に憧れて、追いかけ続けるのは愚かさの極みなのであろうか? しかしながら、それでいいのではないかと心から思えてしまう自分もいるのである。自らの弱さを、不適格を、誇り高い英雄的資質に昇華させて自分を特別だと思いたいのであろうか…

最後に、この言葉で締めくくるとしよう。ハルオの人生そのものの儚さを、無意味さを象徴する言葉。そこに人類の行く末を重ねて…

ゴジラゴジラ足らしめているもの、それは君の憎しみなんだ…」